「リーダーシップ」は、「数学の公式」と「野球のバッティングフォーム」のどちらかで言えば明らかに後者に近い概念だ。サインの二乗とコサインの二乗は誰が足し合わせても1になるが、イチローのバッティングフォームを私が真似しても上手くいかない。だからこそ、こっぱずかしいようであっても「私なりのリーダーシップ論」を練り続けることが大切だと思っている。
得た知識を分解し、自分で編成しなおし、自分で自分なりの原理原則をうちたてることです。自分でたてた原理原則のみが応用のきくものであり、他人から学んだだけではつまりません。
『坂の上の雲』
私が独自のリーダーシップスタイルを確立・実践できているかと言えばその境地にははるか及ばないが、教科書的な正解ではなく自分なりに腹の底から得られた実感と呼べるような学びも、いくつかはある。それらは少なからず痛みを引き換えにせっかく得たものなので、ここで改めて言語化し棚卸しておきたいと思う。
1. コトの時間はコトの時間、ヒトの時間はヒトの時間
根本的帰属の誤り(コトの成否をヒトの良し悪しに結び付けて論ずること)はあらゆる不幸を生む。不毛な「けしかる・けしからん」話に陥ったり、コトの解決とは無関係な自分のプライドを守りたいという雑念に振り回されたり、ヒトの問題をどれほど客観的な観点から論じようと思っても、人間はそう上手くできていない。これは洋の東西を問わず、これまでどこの職場でも共通して見られる現象だった。
したがってどんな問題も、たいていは純粋にプロセス・システムの問題としてのみ捉えた方が解決に繋がりやすい。もちろん実際にはヒトの問題がまったく介在しないことはほとんど無いのだが、便宜的にそのように考えた方が、少なくとも目の前の問題を解決するという観点においては有益な場合が多い。
なので私は基本的に「コトと向き合うときは、100%コトに集中し、ヒトの問題を持ち込まない」ように念じている。
これは原始仏教の考え方に近いのだが、しかしヒトの問題にまったくタッチしない、ヒトが変わる可能性にまったく期待しないのも、ある意味とても残酷なことだと思う。「期待しなければ裏切られることもない」は自分の精神衛生だけ考えるならその通りだが、相手はむしろ成長のためのフィードバックを望んでいるかもしれない。
よって「ヒトと向き合うときは、100%ヒトに集中し、コトを犠牲にしてでもヒトを優先する」ことも、同じく私が日々念じている重要なマントラだ。
ヒトと繋がったりヒトを育てたりすることは、私にとってコトに当たるモードとは全く別次元の、ROI度外視の活動だ。こと私は気を抜くとコトにばかり頭が行ってしまう人間なので、正直なところそれくらい自覚的に頭をスイッチしないとヒトモードにならない。しかしそれはそれで、「天性の人たらし」には無い強みにもなりうる。
コトとヒトを一緒くたに論じるのが上手くいかない大きな理由は、両者の時間軸の違いにあるのだろう。コトの問題はなるべく迅速に、早ければ分~秒単位で解決する必要があるが、人間はそんな時間軸で変わることはできない。両者はそもそもが相容れない性質の問題であり、まったく別世界の話であるとして頭を切り替えて対処するのが私の性に合っている。
2. スペースにパスを出す
ラグビーやサッカーのようなゲームのパスには、2種類の考え方がある。味方の足元に出すパスと、敵陣のスペースを突くパスである。
パスの受け手にとっては前者の方が「快適」であり、後者を受け取るためにダッシュを繰り返すのは「苦しい」ことだ。したがって私が社会人人生をスタートした職場では前者の原理、いわばベルベットパスの美学が尊重されていた。特に取引先や上司といった目上の方が快適に受け取れるような、受け手の呼吸に合わせた報告・依頼を出すことが仕事の要諦と教わった。
しかしその後に全く異なる原理で動くさまざまなチームを経験した結果として、現在の私はキラーパス派だ。つまり「ゴールに繋がるスペースにボールを送り込むこと」が優先事項であり、受け手が快適かどうかはあえて二の次とする。それは主に2つの観点から重要だと考えている。
1つ目の理由は単純にスピード感の問題だ。キラーパス派のチームの方が、より鋭くゴールに迫っていくことができる。例えば現在の職場では、クライアントにバリューを提供するためであれば、多忙な上司に対してであろうと必要なタスクと期限をまずはストレートに言い渡すことが推奨されている。
どれほど快適なパスを送り合っていても、結局のところゴールが決まらないことほどチームを不幸にするものはない。その認識を共有できれば、チームを思いやるからこそ互いにあと半歩のストレッチを引き出すという、高い次元の信頼感で繋がり合うことは可能だと知ることができた。
2つ目の理由は(こちらがより大事なのだが)、スペースへのパスを志向すると、常に自分なりの「ゴールに向かう道筋」を描く必要に迫られることにある。
足元へのパスは「とりあえずあの人に任せよう」という感覚で出せるが、スペースへのパスは「自分はこれがゴールへの最も効果的な道筋だと思う」という仮説が無ければ出せない。チームとしてどうやってゴールに迫るかという全体ビジョンに対して傲慢なまでの当事者意識を持つからこそ、逆算して誰もいないスペースにボールを出せるのだ。
傲慢なまでの当事者意識とはつまり、自分より遥かに高い知識レベルを持った専門家の守備範囲に対してさえも、あえて自分なりの仮説に基づいてパスを出すということである。この観点から言えば、「この領域に関しては◯◯さんの方がよくご存じなので…」というリスペクトを込めた足元へのパスも非推奨ということになる。
自分なりに最大限ストレッチングな環境(プロフェッショナルファームの欧州オフィス)に飛び込んだ際、スキルや知識面でどんなギャップを思い知らされるかと身構えていたが、最も強烈な学びとなったのはこの当事者意識の水準の差だった。そしてプレーヤー・マネージャーに関わらず、本当の意味での当事者意識を持ったメンバーが1人でも多くいることで、チームのパフォーマンスがどれほど大幅に引き上げられるかも同時に思い知らされた。
3. 短期で悲観、長期で楽観
『ビジョナリー・カンパニー』で言うところの「ストックデールの逆説」である。
厳しい現実を真正面から直視する悲観主義と、最後には必ず笑ってみせるという確信を持ち続ける楽観主義の並立。これも「逆説」というよりは、やはり時間軸の使い分けではないかと私は捉えている。
短期的な浮き沈みに関して言えば、人生とは全くもってままならないものだ。しかしえてして優秀な人ほど、おおよそのことは自分の思い描く通りに達成してきたという成功体験があり、ほとんど「運」「ご縁」に属する事象すらも何とかコントロールしようと試みる(そしてコントロールできなかった時に落ち込んだり腹を立てたりする)傾向がある。そして安全地帯を飛び出して自分の世界を広げていくほどに、この習慣からは得るものよりも、失う精神的エネルギーの方が大きくなってしまう。
であれば個別の事象をすべて上手くやりおおせたいという期待は最初から捨て、一喜一憂せず粛々と自分にできることに集中する。小手先の策を弄してまで目先の結果を追求するよりも、事の本質さえ徹底したら、あとはそれが報われるか否かは些事と割り切る。そういった心構えを私が完璧に実践できているかといえばそうも言い切れないのだが、苦労が足りなかった若い頃には大きく欠けていたこのメンタルスキルを、これまでの経験を通じて自分なりに大きく伸ばすことができたとは思う。
かといって、長期的な展望まで「人生とは儚いものさ」とニヒリズムに任せる姿勢を私は選ばない。むしろこれこそが終わりのない苦しみから逃れる至るための正解とされている哲学諸派も多く、何となく今の時代はそちらの方がマッチョなポジティブ主義よりもクールとされている気はする。しかし少なくとも私の場合、「最後に笑うために今は険しい道を歩んでいるんだ」と考えた方が、経験的に自分を大切にできる傾向にある。
短期的な浮き沈みは淡々と受け流しながら、最後に笑うために一歩ずつ前へ進む。それが唯一の正解だとは思わないが、メンタル強者ではないからこそ試行錯誤を経てたどり着いた、私なりのスタイルである。